中国書道史① 「甲骨文」・「金文」

漢字は中国で発祥し朝鮮半島を経由し日本にもたらされたと考えられています。その後はベトナムなどの周辺諸国にも伝わり、その形態・機能を利用して日本語など各地の言語の表記にも使われました.。

中国最古の王朝とされている夏(「か」、紀元前2070年頃 ~紀元前1600年頃)時代には、文字をはじめ考古学的には何も発見されていません。その為、殷(「いん」、紀元前17世紀頃 – 紀元前1046年)が考古学的には実在が確認されてい中国最古の王朝となります。

殷代にはすでに毛筆を使用した遺品があり、幼稚ではありますが無意識の中に芸術性がうかがえる物が発見されています。殷の盤庚(ばんこう)王が都とした安陽の殷墟(いんきょ)から発見された「甲骨文字」が現存する最古の文字です。それ以前のものは文字と言うより符号的なもので「刻符」「陶片文字」と呼ばれています。

殷から周(「しゅう」、紀元前11世紀~紀元前256年)へかけて青銅器の発展により、銅器に銘文が施されるようになり、これを「金文」と呼びます。字形は甲骨文より曲線が多くなり、初期の図象文字は各氏族の標識(日本の家紋のようなもの)と推定されています。甲骨文は実用にのみ使われましたが、それ以降の文字には洗練度と装飾性が加わってます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金石文はかなり古くから研究が進んでいましたが、甲骨文が発見・研究されるようになったのは19世紀末になってからです。1899年、当時の清の国子監祭酒であった王懿栄(おういえい)は、持病のマラリアの治療薬として、竜骨(大型哺乳動物の化石化した骨、特に種別は特定されていない)と呼ばれていた骨を薬剤店から購入したところ、粉にする前のその骨に何か文字が書かれていることを発見して、驚いて薬剤店から竜骨を大量に買い集め、そのことを知った他の研究者たちも竜骨を買い集めたというのがよく言われる逸話です。この逸話が真実か否かは不明であるが、研究が始まったのが1899年の前後であること、その先駆者も王懿栄であることには間違いないようです。
現在見ることのできるもっとも古い文字資料が甲骨文であることは知られています。では甲骨文より以前の文字はないのかと言うと、多くの研究者が当然のように甲骨文の元となった姿の文字があると考え、考古学的発見を期待していますが、残念ながら期待とは裏腹に、依然として発見には至っておりません。。

漢字は、現代も使われ続けている文字の中で世界で最も古く成立した文字です。人類史上、最も文字数が多い文字体系でもあり、その数は10万文字をはるかに超え、他の言語の文字体系を圧倒しています。ただしそのほとんどは歴史的な文書の中でしか見られない頻度の低いものです、研究によると、中国で一般的に生活をするためには、3000から4000の漢字を知っていれば充分とされています。近代以降、異体字を整理したり、使用頻度の少ない漢字の利用を制限しようとする動きは何度もありましたが、1950年頃から「簡体字(かんたいじ)」と呼ばれる漢字を簡略化独自の漢字が使われるようになりました。中国・シンガポール・マレーシア等で使われる簡体字ですが、台湾では使われていません。