中国書道史③ 三国時代

三国時代の書道
後漢末期の184年に、「黄巾(こうきん)の乱」と呼ばれる農民反乱が起き、これ以降隋が589年に中国を再統一するまで、一時期を除いて中国は分裂を続けました。この隋の再統一までの分裂の時代を魏晋南北朝時代言い、この時期には日本や朝鮮など中国周辺の諸民族が独自の国家を形成し始めました。
黄巾の乱が鎮圧されたあと、豪族が各地に独自政権を立て、中でも有力であったのが、漢王朝の皇帝を擁していた曹操です。しかし、中国統一を目指していた曹操は、208年に赤壁の戦いで、江南の豪族孫権に敗れ、曹操の死後、220年に曹操の子の曹丕(そうひ)が後漢の皇帝から皇帝の位を譲られ、魏を建国しました。これに対して、221年には、現在の四川省に割拠していた劉備が皇帝となり蜀を建国。さらに、江南の孫権も229年に皇帝と称して、呉を建国。この魏・呉・蜀の三国が並立した時代を三国時代と言います。

この時代は戦乱が打ち続いた時代であり、また、建安10年(205)、後漢の献帝を擁立していた曹操が、経済を圧迫しているという理由から建碑を禁止した為、この時代の刻石で現存するものは少なく、魏においてもこの禁令がそのまま実行されました。建碑禁止令の発令により漢代は陵墓が重んじられ、それらの諸碑により書風の変遷をみると、漢の隷意を継承しながら徐々に楷書に移り行く隷楷中間の書風といえます。
この時代に楷書の名跡(法帖)を数多く残した魏の鍾繇(しょうよう)は傑出しており、漢代に生まれた楷書は鍾繇によって完成の域に達したということができます。特定の個人がはっきりと芸術家としての評価を与えられるようになったのは鍾繇あたりからで、これは書道の芸術的認識が高まったことをよく示しており、その後晋、さらに唐、北宋へと引き継がれていきます。

鍾繇(しょうよう、151~230)
魏の書家、政治家。字は元常。

後漢の末に孝廉(こうれん)として登用されて黄門侍郎となったが、魏国建国の功臣として重用され官位を得る。大傅(たいふ)の官に至ったので、鍾大傅とよばれる。書は隷書・楷書・行書の三体をよくしたと伝えられ、後漢の張芝とともに並び称せられる。

【宣示表(せんしひょう)】全298字。鍾繇71歳の書と伝えられる。真跡は後に王羲之の手にも渡る。この帖は王羲之の臨本である。
扁平な形、線の伸びと縮みが調和する。

三国時代の石刻

【「天発神讖碑(てんぱつしんしんひ)」】

三国時代の有名な石刻で三国時代の呉において天璽(てんじき)元年(276)以降に建てられた顕彰碑。元号により「天璽紀功碑(てんじきこうひ)」、折れて発見されたことから「天璽断碑」「三段碑」とも呼ばれ、同年に建てられた「封禅国山碑(ほうぜんこくざんひ)」と建碑事情が同じであり、両碑は兄弟関係にあるります。独自の極めて特殊な書風と内容を持った碑として知られ、呉を滅亡させる要因となった暴君・孫皓の暗愚さを象徴する存在でもある。
魏の碑が大半を占める三国時代にあって、貴重な他国の書蹟である。しかし原石は北宋代から数度移転された後、清の嘉慶10年(1805)に火災で焼失し、現在は拓本のみが残されている。