中国書道史④ 書聖 王羲之 其の一

王羲之(おうぎし)303年~361年

中国東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれます。              王羲之は、書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として、「書聖(しょせい)」と称され、末子の王献之(おうけんし)も書を能くし、併せて二王(羲之が大王、献之が小王)の称をもって、伝統派の基礎を形成し、後世の書人に及ぼした影響は絶大なものがあります。その書は日本においても奈良時代から手本とされており、現在もその余波をとどめています。
王羲之の書の名声を高めたのは、唐の太宗の強い支持と宋の太宗により編集された「淳化閣帖(じゅんかかくちょう)」の影響が大きく、王羲之の作品としては、行書の「蘭亭序(らんていじょ)」が最も高名ですが、王羲之は各体を能くし、「書断」では楷書・行書・草書・章草・飛白の五体を神品としています。中国では多芸を重んじる傾向があり、王羲之の書が尊ばれる要因はここにあります。
 「王羲之の書の筆勢は、ひときは威勢がよく、竜が天門を跳ねるが如く、虎が鳳闕に臥すが如し」と形容されています。
他の作品には、「楽毅論」「十七帖」「集王聖教序」「黄庭経」「喪乱帖」「孔侍中帖」「興福寺断碑」などが見られるます。
王羲之は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の家に生まれ、東晋建国の元勲であった同族の王導や王敦らから一族期待の若者として将来を嘱望されていました。
朝廷の高官からも高く評価され、たびたび中央の要職に任命されましたが、羲之はそのたびに就任を固辞し、友人の揚州刺史・殷浩による懇願を受け、ようやく護軍将軍に就任するも、しばらくして地方転出を請い、右軍将軍・会稽内史(会稽郡の長官、現在の浙江省紹興市付近)となりました。
羲之は会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、次第に詩、酒、音楽にふける清談の風に染まっていき、ここを終焉の地と定め、当地に隠棲中の謝安や孫綽・許詢・支遁ら名士たちとの交遊を楽しみました。一方で会稽一帯が飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注ぎました。
355年、病気を理由に官を辞して隠遁。官を辞した王羲之はその後も会稽の地にとどまり続け、当地の人士と山水を巡り、仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごしたといいます。

 〈蘭亭序〉
 永和9年(353)3月、王羲之は会稽山陰の蘭亭に41人の名士を招き、詩会を催しました。これが有名な、蘭亭の雅宴です。王羲之を含め都合42人が曲水の畔に陣取り、上流から觴(さかずき)が流れ着くとその酒を飲み、詩を賦(ふ)します。しかし、詩が出来上がらなければ、罰として大きな觴の酒を飲まなければなりませんでした。
この日、四言と五言の2編の詩をなした者11人、1編の詩をなした者15人、詩をなせず罰として大きな觴に3杯の酒を飲まされた者は16人でした。
酒興に乗じて王羲之は、この詩会でなった詩集の序文を揮毫(きごう)しました。世に名高い蘭亭序です。28行、324字。王羲之は酔いが醒めてから何度も蘭亭序を書き直しましたが、これ以上の作はできず、王羲之も自ら蘭亭序を一生の傑作として子孫に伝えました。

 

〈集字聖教序〉

唐の太宗が玄奘三蔵の業績を称えて撰述したもので、これに高宗の序記、玄奘の訳した般若心経を加え、弘福寺の沙門懐仁(え にん)が、高宗の咸亨3年(672年)12月勅命を奉じ、宮中に多く秘蔵していた王羲之の遺墨の中から必要な文字を集めて碑に刻したものである。
羲之が歿してのち、300年後の仕事であるので困難も多く、偏と旁を合わせたり、点画を解体して組み立てた文字もあり、完成するのに25年を要したといわれる。
字数は約1800字で、原碑は現存する。

次号に続く・・・

 

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